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ブルガリアのホテル

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KEMPINKSI HOTEL ZOGRAFSKI (旧ホテルビトーシャ・ザ・ニューオータニ)

 日本政府によるブルガリア政府観光局への融資(多分、輸銀融資、1973年、三菱商事)で建設されたホテル(関係した人)、通称、ヴィトーシャホテル。建設当初はホテルビトーシャ・ザ・ニューオータニという名称だった(1979年)。客室数504室、21階建て。黒川紀章氏の設計。私がチェックインしたときの名称はインターコンチネンタルホテルだったが、途中でこの名前になった。ブルガリアからの移民でドイツで成功したザグロフスキーさんが買収したという噂だった。

 市の中心部よりはやや離れた場所にある。ビトーシャ山の麓がよく見渡せる。ホテルの近くからはトラムで市の中心部まで容易に行ける。 サクラという日本料理屋があったが、似非だったのであまり足を運んでいない。ホテルの設備としては当初の設計が五ツ星なのだろう、フィットネスからプール、レストランが揃っていた。思い出したがイタリアンレストランもあり、時々だったがアルデンテには程遠いパスタを食べに行った。ホテル内ではまともな食事は期待できなかった。朝食付きだったが、ブルガリアヨーグルト以外記憶にない。

 部屋はシングルベッドが二つ並んだスタンダードな部屋だった。通常の宿泊料金は180ドルとか聞いていたが、そのとき一緒に仕事をしていた大和総研の顔で(きっと大和証券ロンドンだろう)85ドルで泊まっていた。

 当時はブルガリアの通貨レバが対ドルで急激な下落状態にあったので、ホテルの支払いはドル建てだった。レバで支払えるものは食費や交通費などだった。1996年から97年にかけての年末年始はこのホテルで過ごした。普段でさえ賑わいのあるホテルではないのだが、年末年始は若干の観光客が目に付いたがそれ以外は概ね閑散としていた。

 このホテルの電話交換機はインターネットに繋げないシステムだったので、わざわざビジネスセンターの回線を利用して繋いでいた。ここが6時に閉まるので、五つ星ホテルにしてはまったく不便だった。それもあって、アパートか他のホテルに移ろうと考え出していた。 (Dec 1996 )

年が明けた1997年もこのホテルに宿泊した。既にホテルの名称がインターコンチネンタルホテルからザグロフスキーホテル、そして、ケンピンスキー・ホテル・ザグロフスキーへと変わっていた。宿泊料金をクレジットカードで支払っていたが、ブルガリアは金融危機の真っ只中、VISAを取り扱っていた農業銀行が倒産し。取り扱い停止になった。ほてるからその旨通告を受けたが、USDキャッシュを持ち合わせていなかったことから、クレジットカード払いが出来る下記のグロリア・パレス・ホテルへ移ることにした。

100 JAMES BOURCHIER BOULEVARD
1407 SOFIA
Telephone: +359 - 2 - 62518
Fax: +359 - 2 - 4921232

http://www.kempinski.com/en/sofia/Pages/Welcome.aspx

Gloria Palace Hotel, Aug.-Sep. 1997

2回目のソフィア出張でこのホテルに泊まった。最初は上記のザグロフスキーに泊まっていた。ブルガリ経済が疲弊し、レバの下落が一向に止まらないのとに関連しインフレ率が年間200%を越えていた状況の真っ只中だった。

よってなるべく宿泊場所はバラバラにならないようにとのお達し(詭弁だと思うが)があった。そんな時運良くというか、ブルガリアでVISAを扱っている農業銀行が倒産し、一時VISAが使えなくなった。このままいては現金の持ち合わせもなくVISAでの支払いができないのでと言う名目でこのホテルに移った。実際、ホテル側は日本へ帰国してから送金してくれればよいといっていたが、送金手数料とかどうするの?その他、使えたクレジットカードは、AMEXそしてJCBだった。

ここは旧市街地区に新しく開業したこじんまりとしたホテル。ここから事務所へは徒歩で10分程度。イスラム寺院、グム百貨店、大蔵省、旧共産党本部など街の様子を毎日眺めながらの楽しい通勤だった。

部屋は、上記ホテルより少し狭い程度、差ほど違和感は感じなかった。ホテルを移る前に電話線のことを確認しておいたので、チェックインのときにアダプターを用意しくれていた。これには助かった。

部屋の目の前はソフィア駅からビトーシャへ伸びる道路。そしてトラムの路線があった。両側の建物が迫っているので、トラムが通過すると走行音が響いたが、これはヨーロッパの都心特有なことだと思って諦めた。

朝食はブッフェスタイルであったが差ほど選択肢が多きわけではなかった。しかし、ブルガリアヨーグルトたっぷりのとあり、毎日シリアルボールに一杯とってジャムやバナナと一緒に食べた。

Hotel Bourgas, Sep. 1997

黒海沿岸の都市ブルガスのホテル、共産主義時代はホテルが所在する地名が付いているホテルが最高級とされたが・・・。(ブルガスホテルと記憶違いしていた。やはり建物とロゴからこのホテルに間違いない。)

1976年に建てられた高層ホテル(ここでは)の窓から黒海が望めた。日が傾き始めた9月のブルガス、黒海の青い海とオレンジ色の屋根と白い壁のブルガスの街、なかなかのコントラストだった。

ホテル自体は共産主義スタンダードで機能的、丁度、日本のツアーがこのホテルに泊まっていた。ツアーのタイトルは”郷愁のルーマニアとブルガリア”だった。なぜ郷愁なのかわからないけど、美しい田舎の雰囲気がそう連想させたのだろうか。( Sep. 1997)

21 Aleksandrovka Str..Bourgas,

phone: +359 56 842 820; fax: +359 56 842 82

http://www.bulgaria-hotel.com/